眼鏡堂書店

積み上げられた未読本の消化と、ホラー映画100本ノックを目指すブログ。不定期更新のゆるゆるです。

私は前科者である/橘外男

私は前科者である (インパクト選書)

私は前科者である (インパクト選書)

 

『ナリン殿下への回想』で第7回直木賞を受賞した作家、橘外男の自伝的小説。 

内容としては、21歳の時、勤務先で公金横領事件を引き起こした橘外男が約1年ほど札幌監獄に服役した時の受刑者生活から、出所後、様々な底辺職を経つつ、更生して現在に至るまでが描かれています。その中で繰り返し語られるのは、前科者であるということへの不当ともいえる差別、そして底辺職での搾取構造です。それらについて、これらがいかに厳しく、そして不当なものであるか、が繰り返し語られます。

それが本書における主題であろうと思われるのですが、「いや、ちょっと待てよ」と眼鏡堂は思うのです。

なぜそのように思うかは後段に譲るとして、まずは作者である橘外男という人物について簡単に触れておきます。

 

橘外男は1936年石川県生まれ。

主に(広義の意味での)推理小説で活躍した作家で『酒場ルーレット紛擾記』が文藝春秋の懸賞募集に入選したことで文壇に登場します。

代表的な作品としては『陰獣トリステサ』『妖花イレーネ』『妖花 ユウゼニカ物語』『青白き裸女群像』などの奇想小説、新東宝で映画化された『亡霊怪猫屋敷』の原作、『怪猫屋敷 山茶花屋敷物語』などがあります。熱っぽく畳みかけるように連ねられる独特の文体は”饒舌体”と称され、異端文学者のひとりとして澁澤龍彦をはじめとした文学者に偏愛されました。

私生活では貿易会社や医療器具店への勤務を経て、戦中に満州へと移住。一度は帰国するも再び満州へと渡航し、満州映画協会に嘱託として勤務。そのまま終戦を迎えます。

作家としては上記の奇想小説をはじめ、満州時代の様子を饒舌体で描いた一連の作品は”満州もの”と呼ばれ、当時の生活を知る資料の一端となっています。また、戦後はジャンルを問わず幅広く作品を執筆し、一時ではあれ流行作家のひとりに名を連ねました。しかし、生来の奇矯癖や文壇と交流を持つことなく孤高を貫こうとしたことに加え、時流の変化が彼の人気に陰りを見せ、今では知る人ぞ知る”消えたかつての流行作家”となっています。

 

その橘外男の作品群の中で異彩を放っているのが、本作『私は前科者である』。

タイトルが物語るように、それまで彼が語ることなかった自身の生い立ちについて赤裸々につづった作品です。

話はまず、監獄時代の話になります。

当然、語られるのは囚人としての暮らしです。

この”囚人としての暮らし”ですが、大きく二つに分けられると思います。

ひとつは、囚人生活というものが自由がない代わりに、存外悪いものではない、というもの。これは軽微な犯罪での服役について言えるもので、作品としては花輪和一の『刑務所の中』が代表。

そして、もうひとつ。刑務所(監獄)という場所がいかに過酷で非人間的な空間であるか、という告発にも似た怒りを表したもの。これは無実の罪で投獄された人間の手記等にみられるもので、もっともこの無実の罪というのが実際に無実であるかどうかというのはさほど重要ではなく、当人は無実であると思っている、というものも、この中に含めてもよいと思います。罪状としては無実は当然のこととして、いわゆる軽微な罪状は皆無といってよく、殺人や強盗、あるいはそれに類するもの。そして自身の罪に対する量刑が重すぎる(と感じている)ものです。

作品としては『ショーシャンクの空に』のようなものから、見沢知廉の『調律の帝国』まで、その印象に大きな開きがあるのもまた特徴といえる気がします。

ちなみに、本作『私は前科者である』は後者に則って描かれています。

 

ただ、服役生活にせよ、出所後の生活にせよ、クセモノなのが橘外男の犯した罪が業務上横領であるということ。それもやむにやまれぬ事情によるそれではなく、単なる自分の欲望にあらがえず引き起こしてしまった、とてもあさましい罪であるということ。

特に出所後が顕著なのですが、どうにもこうにも彼自身に反省の色がうかがえない。

やっと見つけた仕事先で「誠実に仕事をしていればきっと認めてもらえるはずだ、仕事があるだけありがたい」と殊勝な態度をとるも、すぐに不満をあらわにして喧嘩、その職場を飛び出してしまう始末。結局どの職場に行っても待遇や仕事内容にグズグズ文句を垂れた挙句、飛び出してしまう。

たしかに、前科者であるがゆえに身元保証人がつけられない、というのは仕方ないことではあるにせよ、この時代のおおらかさ、といってよいのか、そういったものをでっちあげる業者がいる(いた)、というのは驚きの一つ。大丈夫なの?とこっちは心配になってくるのですが、当然のようにこれは当時も違法行為。結局それらが積もり積もった結果、職場をたたき出されることになるわけで。

そして行きつくところまで行きついた結果が、救世軍での底辺生活。

この本で初めて”救世軍”なるものを知ったのですが、要するにキリスト教の慈善事業団体。ホームレスに食事と寝る場所を提供する社会福祉活動のお世話になるのですが、ここでも「部屋が汚い」「布団が汚い」と一通り文句たらたら。もっとも、部屋と布団が汚いことについては紛れもない事実で、この救世軍での生活によって疥癬とダニにかまれるということになるのですが。

 

何はともあれ主人公たる橘外男のキャラクターが、非常に独善的で自己中心的。

すべて対して向けられるルサンチマンの幼稚さや、都合の良い自己解釈、読んでいて思い出されたのは西村賢太の『苦役列車』。

本書はプレカリアート*1小説として紹介されているのですが、眼鏡堂個人としてはプレタリアート文学、乃至はプロレタリア文学のような印象は受けませんでした。

確かに物語の内容そのものは『蟹工船』などに代表されるプロレタリア文学ではあるのですが、その物語を綴ったのは他でもない橘外男本人。

あくまでも本作は自伝的小説であって自伝ではない、というところが個人的には注意点であるように思えてなりません。これは、良いことか悪いことか、という二元論的判断を下すものではなく、あくまでも「ここに書かれていることはすべて真実に基づいたもの」ではない可能性がある、ということを念頭に置くための暗示のようなものと考えてもらえればよいと思います。

相手は”現実ではない物語”を紡ぐ小説家を生業にしている人物です。

永井荷風の『断腸亭日乗』が、自身の日記でありながら他人に見られることを想定した文学作品であったように、この『私は前科者である』もまた、他人に見られ、読まれることを意識した虚構を含む自伝的小説という創作物である、と考えておく必要があるのではないか、と思います。

 

とはいえ、奇矯で知られた異端文学者の語る自分自身の過去、というのは『私は前科者である』というタイトルと相まって、非常に強く興味を惹かれます。

橘外男という小説家の来歴を知るための一端としてはもちろんのこと、完全にフィクションであると割り切ったうえで読んでも十二分に面白い作品です。

願わくば、こうして本書が読まれることによって消えた作家へ再び注目が集まり、再評価へとつながっていったらいいな、などと思ったりもしたのでした。以上、おわり。

*1:不安定な雇用・労働状況における非正規労働者や失業者の総体のこと。プロレタリアとの違いは雇用・労働環境が正規雇用であるか非正規雇用であるかによって分けられる。