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眼鏡堂書店

積み上げられた未読本の消化と、ホラー映画100本ノックを目指すブログ。不定期更新のゆるゆるです。

眠れる美女/川端康成

読書【小説】
眠れる美女 (新潮文庫)

眠れる美女 (新潮文庫)

 

積ん読消化。

 

川端康成といえば、ノーベル文学賞を受賞した文豪であり、『素晴らしい日本の私』であり、『雪国』であり、『伊豆の踊子』である。

だが、これが大変に間違った川端のイメージだとオイラは声を大にして言いたい!!

特に『伊豆の踊子』が当時人気のアイドルたちによって何度となく映画化され、”輝かしい青春を描いた作家”というレッテルを張られたのは、川端にとって最大の不幸と言える。

そもそも、川端はそういう作家ではない。

 

川端康成谷崎潤一郎以上に倒錯した、それこそ変態的にフェティッシュな作家だ。

それはこの『眠れる美女』に如実に表れている。

同時に、本作が川端文学の最高傑作であり、”『伊豆の踊子』のような青春小説を書いた文豪”というイメージを完全に破壊する、恐るべき作品だ。

この新潮文庫には、表題作のほかに、傑作として名高い『片腕』も収録されている。

しかも解説は三島由紀夫であり、お値段は¥400。

これほどお買い得な作品もない。ジャパネットの高田社長もびっくりだ。

 

何度読んでも打ちのめされるというか、溜息が出るほどに耽美で官能的な小説。

そのうえ倒錯的とくれば読まないわけにはいかない。

文体の美しさと相まって、読後の満足感がハンパない。

何度も何度も読んだのだが、しばらくぶりに本棚から引っ張り出してみた。

すごく大好きな作品なので、普段よりがっつりめに記事を書こうと思う。

 

1.眠れる美女

厳密には、美女というよりは美少女と言った方がいいのだろうが、そういう重箱の隅をつつくようなマネはしたくない。

ともあれ、下敷きになっているのは明らかに『眠れる森の美女』。

澁澤龍彦が著書『少女コレクション序説』でこんなことを書いている。

  • おそらく、美しい少女ほど、コレクションの対象とするのにふさわしい存在はあるまい、と考えたからだ。
  • 小鳥も、犬も、猫も、少女も、みずからは語り出さない受け身の存在であればこそ、私たち男にとって限りなくエロティックなのである。
少女コレクション序説 (中公文庫)

少女コレクション序説 (中公文庫)

 

 

自我を持たないオブジェとしての少女ほどコレクションに値するものはない、とは言い得て妙だが、こういうことをさらに掘り下げて書くと、「このヘンタイ!!」と後ろ指を指され、石持て追われ、お天道様の下を歩けなくなるのでやめておく。

アニメの脚本等で知られる倉田英之さんの著書に『倉本 倉田の蔵出し』という本があり、”女は紙かJPGに限る”、”三次元の女性と俺とは世界のリージョンコードが合わない”、という金言があるが、何となくそれを思い出してしまい、せっかくの川端作品の最高傑作が台無しになってしまったじゃねえかよ!!

もっとアカデミックな事を書くつもりだったのに……。

倉本 倉田の蔵出し

倉本 倉田の蔵出し

 

 

ストーリーは、既に男ではなくなった老人たちのための秘密の娯楽を提供する家が舞台。何があっても起きないくらいに深く眠らされた裸の美少女と添い寝する老人の目を通して、瑞々しい娘の生とは対照的な、自身に訪れつつある死の影を見る、という話。

このストーリーだけ見ると何やら谷崎潤一郎的というか、初期の江戸川乱歩的な倒錯的&変態的な作品という印象を受けるが、実際に読んでみると、不思議とそんな印象がない。

理由は単純で、裸で無防備に眠る少女に対して老人が何もしないからだ。

それは彼が男としての機能を失っているから、というのもあるのだろうが、お触り厳禁なのがお店のルールだというのもある。

それよりなにより、眠る少女はあくまでオブジェとしてそこにある”モノ”であって、性欲を満たすための”対象”ではないというのが、本作最大のポイントだ。

あくまでも愛でる対象として少女はあり、行為は全て老人の脳内から一歩も外に出ることがない。最も高尚なエロスは想像の中にこそあるというのは、『血と薔薇』という有名な雑誌の文言だが、眠れる美女はそれを体現した小説だと言える。

 

倒錯的&変態的*1だが、不思議とそんな印象がない、と先に書いたのが、ここにつながってくる。

 

つまり、あくまでも少女は観賞のみを目的とした無機物としての”モノ”であり、それに対して抱く感情はあくまでも受け手の脳裏にのみ存在する。決して触れてはならない、という制約があるからこそ、その制約の中で想像の翼が活発に羽ばたく。

さらに言えば、この老人が眠る少女の裸を前にして、想像することが少々面食らう。

ギラギラした欲望がない。むしろ、これまで会った女性のことを回想し、亡くなった妻との出会いを思い出し、とうに巣立った娘の幼少期を振り返る。

ストーリーの異常さに反し、非常に冷ややかな諦観が多くを占めるのだ。

最初こそ、「この家は(このくらぶは)なんなのか?一体どんな娘が眠っているというのか?この娘たちはどこからきたのか?」ということを考えるのだが、それもこの短い小説のなかではほんの一瞬だ。

間近にある死という終わりを見据えることによって、世俗の余事雑事に興味が失われていく、ということなのだろうか?この辺りの奇妙なうら寂しさも、年齢を重ねるにしたがってだんだんと理解できるようになってきた。

この辺りに関して思い出したのは、金子光晴の『這えば立て』と、「命短し恋せよ乙女」という一節で有名な『ゴンドラの唄』。

這えば立て (中公文庫)

這えば立て (中公文庫)

 

 


『ゴンドラの唄』東京混声合唱団 - YouTube

 

死が目前にせまりつつある自分とは対照的な、瑞々しい生の輝きを見せる孫とを対比させながら、生への賛歌とともに死に対する滑稽なまでの諦観を歌ったのが『這えば立て』。這って生まれ、やがて立ち、しかし老いることで再び這う。生と死がひとつの円環構造であることを少し考えさせられる。

『ゴンドラの唄』も同じベクトル上にある作品と言える。輝かしい生の瞬間、それはあっという間に過ぎ去ってしまい、決して戻ってはこない。だからこそ謳歌しなくては。もっとも、そのようにいえるのは既にその輝かしい生の瞬間が過ぎ去ったからこそ、という皮肉めいた逆説がある。だからこそ、この『ゴンドラの唄』は一抹の寂しさがあるのだ。

 

それら二つがウエットな(感情的な)作品なら、『眠れる美女』は非常にドライな作品だ。

生と死を描く、というとどうしても感情論が先に立ってしまう。それを敢えて廃して、対象と距離を置いたドライな筆致で描くあたりが、文豪の文豪たるゆえんだ。

広義の意味で一種の幻想小説ともいえるのだが、文章がドライで硬質なうえに、簡潔かつ的確な描写とがあいまって、作品内のリアリズムがゆるぎない。外郭がはっきりとしっかりとしているので、深々と眠った裸の少女と添い寝する老人たち、という突飛で異常なアイディアにも作品内でのリアリティが生まれてくる。

 

とても不思議な作品であると同時に、とても印象に残る作品。

川端康成と聞いて『伊豆の踊子』と『雪国』しか思い浮かばない、という人ほど読んで欲しい。良くも悪くも、その印象を大きく裏切る傑作だ。

 

2.片腕

この作品のキーとなるのはシュルレアリスム。現代美術的というか前衛的な表現を基本にして、作品が編まれている。

といっても、前衛=難解では決してなく、単純な物語としての完成度も抜群。

季節がら、夏という事もあり一種の怪談めいた印象もあるので、高校生や大学生にオススメしたい。

 

「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」という非常に印象的な一文から物語は始まるのだが、全体を貫くトーンが官能的であり耽美的。同時に”女の片腕と一晩過ごす”という主題が示すように、そこに更に猟奇的な印象が加味される。

この辺が、一種の怪談めいた印象の根源だろう。

 

女の美しい腕、からピンとくるのは谷崎潤一郎の世界。

短編『富美子の足』や『瘋癲老人日記』がその最たるもの。

特に前者はまさに文豪が己のフェチを完全にオープンにした剛速球&ド直球。

ここまでくると、さすがとしか言いようがない。

ちなみに後者だが「きれいなおなごの足に踏まれたい」という男なら誰しもが思い描く欲望を露わにしており、素晴らしいやり過ぎ感に満ち溢れている。*2正直、ついていけねえぞ。

谷崎潤一郎フェティシズム小説集 (集英社文庫)

谷崎潤一郎フェティシズム小説集 (集英社文庫)

 

 ※『富美子の足』は本書に収録

瘋癲老人日記 (中公文庫)

瘋癲老人日記 (中公文庫)

 

 

同時に、このフェティッシュかつ猟奇的な雰囲気は江戸川乱歩の作品に通ずるものがある。

人間椅子 (江戸川乱歩文庫)

人間椅子 (江戸川乱歩文庫)

 

……ってな感じで随分大上段に振りかぶってしまったが、谷崎や乱歩のように熱っぽさや湿っぽさがないので、強烈にフェティッシュであるにもかかわらず、すっきりとして読みやすい。とはいえ、この齟齬が作品全体に妙な雰囲気を与えているのも事実。

短い割には思いの外読み応えがあるし、グイグイと作品世界に引き込んでくる。

 

川端が本作を手掛けるきっかけになったのは、手の彫刻を購入したからだとか。

川端康成は骨董品の収集家として有名だが、一方で現代美術にも関心があり、折に触れて幾つかを購入している。そのうちのひとつが、手の彫刻。

これを眺めてアイディアを練った結果が、本作『片腕』。

 

これもまた、眠れる美女同様に非常にオブジェ感が強い。

人体の一部分を無機的なパーツとして愛好する、と書けば何やら深いことを言っているようにも見えるけど、要するに”手フェチ”だと断言すると元も子もないぞ。

でも、”肩と腕の付け根にあるぷっくりとした丸みがたまらない、あれがないとイヤだ”といった記述があるのを見るにつけ、「確かにそれは大事だ」と力強く頷く自分を発見。もうイヤだ、この小説(笑)

 

眠れる美女』が罪悪感に乏しいのに対して、『片腕』の方は罪悪感全開だ。

そりゃそうだ。

女の片腕もって歩いてたら普通逮捕される。……なんというか、非常にタイムリーな話題なので、これ以上のコメントは差し控えたいと思う。

 

非現実的な光景が展開するのだが、奇妙なほどその場面を想像しやすい。

現実的ではないが、作品内の現実性に沿っているからこそ、なせる業だ。

嘘くさいというのは、小説にとってマイナスだが、完璧な嘘はそれ自体が作品になりうる。そういう意味では、この『片腕』はまさにそういうたぐいの作品である。

 

冒頭の台詞「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」から始まり、ラストに向かって徐々に徐々にテンションを上げていく。

構成も素晴らしいし、何より余分なものの一切をそぎ落としたことで、短編でありながら非常に濃い。

作品を書くには手描きが一番だ、というバカげたことを言う気はないが、なまじPCという非常に優れた筆記ツールがあるがために、いくらでも書けてしまう、というのは問題だ。冗長な文章がだらだら続くよりも、簡潔で凄味のある一文の方が幾らも価値がある。

長編が書けるというのは確かに才能かも知れないが、作家の真価を問うのはやはり短篇の完成度だろう。川端康成を捕まえて言う事ではないんだけど。

 

川端康成という作家のイメージからは最も遠い、一種の怪談というかホラー小説。

それも超絶な完成度の逸品だ。

 

 

眠れる美女』も『片腕』も、夏休みの読書感想文的な文脈からは外れた作品。

でも、確実に読むべき作品なのは間違いない。

本来の川端文学の真骨頂を思う存分堪能できる傑作中の傑作。

大作家だからと気後れせずに、是非是非読んでもらいたい。

*1:川端の少女に対する倒錯的&変態的な欲望は、文壇では秘中の秘だった。だからこそ、臼井吉見の『事故のてんまつ』が大問題になったのだ。

*2:谷崎は三番目の奥さんである松子へのラブレターの中で「貴女の綺麗な足で思う存分私を踏みつけてほしい。私を踏みつけながら蔑むような罵声を浴びせてほしい」と記している。