眼鏡堂書店

積み上げられた未読本の消化と、ホラー映画100本ノックを目指すブログ。不定期更新のゆるゆるです。

檸檬/梶井基次郎

檸檬 (角川文庫)

檸檬 (角川文庫)

 

【あらすじ】

得体の知れない憂鬱な心情や、ふと抱いたいたずらな感情を、色彩豊かな事物や心象と共に詩的に描いた作品。三高時代の梶井が京都に下宿していた時の鬱屈した心理を背景に、一個のレモンと出会ったときの感動や、それを洋書店の書棚の前に置き、鮮やかなレモンの爆弾を仕掛けたつもりで逃走するという空想が描かれている。
Wikipediaより引用

 

【著者略歴】

日本の小説家。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で20篇余りの小品を残し、文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した。

死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。その作品群は心境小説に近く、散策で目にした風景や自らの身辺を題材にした作品が主であるが、日本的自然主義私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側面の強い独自の作品を創り出している。

Wikipediaより引用

 

【感想など】

檸檬』といえば、もはや昭和の古典(by嵐山光三郎)。
最近はどうだか知りませんが、高校の現代国語を筆頭に、夏休みの読書感想文で……etcとにかく、望む望まぬに拘わらず誰しもが一度は必ず読んでいる小説といっても過言ではないと思っています。まあ、過言でしょうが。

実際、三島由紀夫は”日本最高の短編小説”と評しているくらいです。

 

その『檸檬』は、こんな一文で始まります。

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧おさえつけていた。

 この”えたいの知れない不吉な塊”とは、主人公の内面的な悩みの比喩であり、つまりは作者・梶井基次郎が患った結核を指しています。

この実体的な悩みこそ、この小説を実存的な物語*1として形成させている重要なもののひとつです。

主人公の内面的な悩みや葛藤から生ずる物語、という点では、第1回で取り上げた『赤頭巾ちゃん気をつけて』やその中で比較に上げられた『桐島、部活やめるってよ』、そのほかにもサルトルの『嘔吐』をはじめ、そのテの作品は無数にあります。

ただその中でも、この『檸檬』が今日まで広く、そして多くの人に読まれ続けているのは、その内面的で実存的な悩みがネガティブな印象ではなく、からっとした奇妙な明るさにあるような気がします。

前述したように、『檸檬』の冒頭にある、

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧おさえつけていた。

での”えたいの知れない不吉な塊”とは、結核のことです。

この当時の結核は不治の病でした*2。それゆえに、若くして自分自身の人生の終わりというものを、直近に、そして確実なものとして受け入れなくてはなりませんでした。この避けがたい不条理に対する諦観のようなものが、作品全体を貫く奇妙にからっとした雰囲気を与えているのかもしれません。

 同時に、この”えたいの知れない不吉な塊”は彼自身のぼんやりとした不安も示唆されているような気がします。それは結核というある意味での人生の終わりを突き付けられたにもかかわらず、当の自分自身は、まだ何ものにもなれないまま世間の波の中に揺蕩っている。人生の終わりが見えることによる焦燥、しかし、そんな焦燥に追われながらも自分はいったい何者になろうとしているのか、自分自身にもわからない。

それがもうひとつの”えたいの知れない不吉な塊”ではないでしょうか?

 

そんなぼんやりとした不安にさいなまれた”私”が向かう先が、丸善というのも、ある種象徴的なことと言えます。

この当時の丸善は日本で唯一洋書を扱っている書店。それゆえに、一般の書店とは一線を画す知識人や文化人といった上流階級の人間が足を運ぶ場所でもあります。当時最先端の知識や文化が書棚に並び、多くの概念や思想がまどろむように渦巻いています。

そのような渦巻くようなまどろみの中に、ぼんやりとした不安や憂鬱をまどろむように抱えている”私”が足を運ぶ、というのもこの『檸檬』という作品の象徴的な部分でもあります。

私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。

という、丸善の洋書の棚を知識や文化や概念といった自分の外側に渦巻くものをかき分けて、何ものでもない自分が何者かになろうとするあがきのように、眼鏡堂には感じられました。

 

そして、『檸檬』といえば、

 やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。

積み上げられた本の上に置いた檸檬が爆弾のように夢想し、丸善を木っ端みじんに吹き飛ばすことを想像する。それが『檸檬』におけるもっとも印象的な部分。

その印象を鮮やかにする檸檬

では、この果物が檸檬ではなかったら?ということはよく議論されることであるような気がします。

作中における檸檬は、

  • 当時はまだ浸透していない新しい果物
  • そのままではあまり食べられることのない(あまり生食されない)果物
  • 黄色という異質感を持つ色彩の果物

3番目を補足すると、黄色という色は、清潔感を与えるとともにその逆の印象にも近しい危険を指し示す色でもあります。

その果物が、前述した実存的な物語の中、

 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。

という記述が一層鮮やかな印象を与えます。

そして物語は最終的に、”私”が一歩を踏み出す、

 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。

と結ばれます。

 

短い中に、冴えわたるような鮮やかさが盛り込まれること、そして、きらびやかなまぶしさとともに、檸檬の味のように若さの中の悩みというほろ苦さが後を引かせるところなど、昭和の古典として令和のこれからも読み継がれていくに相応しいと思います。

 

相応しい、と言いつつも、眼鏡堂自身はもう『檸檬』という作品にかつてのように惹かれることはないと思っています。それは単純に、この青春の懊悩というものがすでに過去のものであることとともに、それを思い返すこともなくなってしまったからです。

それでも今こうして読み返してみると、ほろ苦さと鮮やかさが非常にまぶしく感じられました。かつてのように惹かれることはなくなってしまってもなお、作品自体が持つ普遍的な魅力はいまだに衰えません。

文章の圧力も読み手を妨げることがなく、また無駄の一切を配した透明感。

願わくば、中学生、高校生が学校の国語の授業以外で手に取って読んでほしいな、と思ったところです。以上、おわり。

*1:「実存は本質に先行する」という考え方から出発し、人間の本質の創造を人生に対する肯定的な態度のなかから発見していこうとする文学であり物語のこと。

*2:結核の治療薬であるストレプトマイシンが日本国内で生産開始されるのは1950年に入ってから。