仁義なき広島ヤクザ戦争も本作で幕引き。*1
前作で臨界点を突破したことにより、血で血を洗う大ヤクザ抗争が勃発……しないんだな、これが。前作までの対立する組同士のパワーゲームと暴力の応酬に対し、最大の敵が本作では登場する。
警察と市民とマスコミだ。
それぞれ結構ズブズブの関係だったのが、ここから一気に手の平返し。
これでもか!!と言わんばかりの徹底捜査と、不正を暴いた新聞紙上でのマスコミ攻勢によって、幹部連中が次々に逮捕され、広域暴力団同士の代理戦争は思わぬ方向へとシフトしていく。
ヤクザ映画が嫌いな人からすれば、この警察とマスコミに行動は「これが社会正義なのよ!!」なのだろうが、オイラはそう思わない。なぜなら、少なくとも逮捕の根拠のある警察はいいとして(とはいえ、広能が逮捕される場面で「一体誰のチクリかのう?」という台詞から、社会正義で動いているのではないことが分かる)、マスコミのやり方は完全な憶測と捏造記事だ。悪人に対してなら何をやってもいい、という社会正義に溢れる皆さまの行動は本当に素晴らしい。代理戦争の時も書いたが、こういう自己責任を全うしない人間が、世間では出世するし、どんな状況下でも生き残るのだ。
そんなこんなで、どんどんと抗争は奇妙な方向へと転がっていく。
広域暴力団同士の抗争であったはずが、いつの間にか広能VS山守にシフトしていくのだが、それも幹部たちの身動きが取れないため、血の気の多い若造どもが狂犬のようにあばれまわって事態は余計に深刻化。
広能組は指揮官不在のまま大暴走。
かといって山守組も、応援でやってきた連中の接待で財源が食いつぶされ、手も足も出ない状況に。幹部連中が疲弊するのとは対照的に山守だけが無傷でのうのうとしている始末。
ハッキリ言ってこの抗争、超グダグダ。何もいいところがない。
あくまでもヤクザとして落とし前をつけないとと画策する松方弘樹が登場するのだが、仁義なき戦いにおける松方弘樹といえば出ては死ぬ人なので、*2今回も死ぬ。
しかも、相手は小倉一郎!!
まさかあの弘樹が小倉一郎に殺される日がやってこようとは……
だって、この人だぜ!!
なめられっぱなしのチンピラが一花咲かせるためとはいえ、その後の彼に明るい未来が見えねえんだよなあ……。
観ていて思ったんだが、本作に登場する若者たちは、1作目での広能たちと全く一緒。あの当時はそんなほとばしる暴力だけでやっていけたが、今は情勢が違う。
ヤクザ世界でも、というかヤクザ世界だからこそ、暴力ですべてが解決しないのだ。
輝かしい悪ガキの時代から、モノトーンのオトナの世界へ。時代が移り変わる様子がこの映画のなかでは少々さびしい。
時代も、いわゆる経済ヤクザやフロント企業というものの原型が登場しつつある。かつてのように腕っぷしで出世できるような時代ではない。これからのヤクザはいかにして合理的かつ確実にシノギをかけていくか?がカギになる。それを考えると「ワシ、実業一本に絞りたいんじゃけど」といけしゃあしゃあと言い放つ打本は、そんな時代への嗅覚に優れている人物だ。
もっとも「お前のせいでどれだけ血が流れたと思ってんだボケ!!」と言いたい人物はいくらもいるのだが。
この打本が面白くて、広能組の若い連中が山守のアジトを発見して襲撃するという情報を手に入れるのだが、それを山守の部下である武田にタレ込むのはいいだろう。だがタレ込んでおいて「ちょっとお金を融通して欲しいんだけど?」と頼むのは爆笑の場面。
案の定、武田に「敵に金を無心するバカがどの世界にいるんじゃボケ!!」とキレられる(笑)。ホントに面白い人だ。*3
そういうことはともかく、すべてが終わった後の武田と広能のやりとりが強烈に哀愁を誘う。本作は、シリーズ史上最多の(※オイラ調べ)名ゼリフ映画だが、その中でも屈指の名台詞。
ぼそっと広能の言う、「間尺に合わんことをしたのう」という台詞の持つ重さ。
悔恨や後悔ではない、一種どこかほっとしたような、でも確実に落胆と絶望の中に追いやられてしまったからこそ出た言葉。
この言葉が何より重い。
「一体自分のしたことは何だったんだろう?」
広能の胸に去来したものを、自分なりに考えると何とも言えない気持ちになる。
ネタバレだが、最終的に勝ったのは山守だ。
あいつだけが無傷でこの戦いを制したと言える。
責任を負うことなく、危険な場所に出ることもなく、約束を守ることもなく、ただ口先だけの態度で、生きながらえたのだ。
全くカタルシスのない結末だが、しかしそれが現実なのだ。
結局、あの抗争はなんだったのか?
抗争、つまり広義の意味での戦争(あるいは戦争に類似するもの)はただの無意味な徒労に過ぎないということを、この映画はありありと示す。
フィナーレに相応しい映画と言える、圧巻の幕引き。
ヤクザ映画なんていう狭い枠組みの話ではない。
邦画の頂点に相応しい映画だ。