今回取り上げるのは、みなさんお楽しみ!!
あの小栗虫太郎の作品集成だ!!
小栗虫太郎といえば”ミステリ四大奇書”*1の一角をなす『黒死館殺人事件』の作者として非常に有名。本格推理の祖、というよりは本格推理の神様と言っても過言ではない。
この集成では、初期作『完全犯罪』に加え、いわゆる”法水麟太郎モノ”から『後光殺人事件』『黒死館殺人事件』『オフェリヤ殺し』が収録されていて、非常に満足のゆく内容になっている。版元である東京創元社の回し者でもないし、ステマではないけど、なかなかに納得のゆく収録内容ではなかろうかと思う。
とかなんとか言いつつ、どうせなら『完全犯罪』を外して『失楽園殺人事件』を収録すれば完全無欠の本格推理のバイブルになったんではなかろうか?などと考えて見なくもない。まあ、それはそれで胸焼けしそうなボリュームではあるけど。
それはさておき。
この『黒死館殺人事件』をはじめとした法水麟太郎モノは、いわゆる”館モノ”というサブジャンルにカテゴライズされる。
ザックリ説明すると「怪しげな館(洋館であるとさらによい)で密室殺人事件(あるいは不可能犯罪)が発生。館の住人はそうじて怪しく(雰囲気が怪しい、あるいは住人のバックグラウンドとして血塗られた因習などに彩られているとなおよい)、探偵の華麗で知的な推理によって事件が解決へと導かれる」というもの。
新本格派の作家、特に綾辻行人や笠井潔、有栖川有栖はまさにこれを踏襲。
古いところだと横溝正史の『犬神家の一族』はまさに伝統的に本の風景で”館モノ”を描き切った傑作だ。
本来なら、最初に横溝のことを挙げなければならないのだけど、わざわざ一番最後に持ってきたのには意味がある。
なぜなら、『黒死館殺人事件』が世に出るきっかけに、他でもない横溝正史が絡んでいるからだ。
たしかあれは江戸川乱歩が編集長を務めていた宝石という雑誌だったと思うが、新作を掲載するはずの横溝正史がなかなか筆が進まず雑誌に穴が開くことが確定。
横溝が乱歩に対して「間に合わない」という旨を告げると、乱歩が言ったのは「他に誰かいないか?」。そのとき白羽の矢が立ったのが他でもない小栗虫太郎。ちなみに、横溝と小栗は友人だったりする。
このとき掲載されたのが他でもない『黒死館殺人事件』。
まあ、余談はこのくらいにしておこう。
本作『黒死館殺人事件』がミステリ四大奇書に数えられるのは、勿論それ相応の理由があってのもの。
推理モノにありがちな(というか、そっちが普通なんだが)”探偵が物理的なトリックを暴きアリバイの矛盾を指摘し、真犯人を見つけ出す”というアプローチを取らないのがこの小説最大の特徴(笑)
確かに、探偵・法水麟太郎はトリックを暴き、アリバイの矛盾を指摘するが、それは物理的なものでは全くなく、因果因習やシンクロニティなどなどに代表されるゴシックな衒学趣味を膨大な異端文化の知識によるもの。
ミステリ好き、という人が普段どの程度のミステリ小説を読んでいるかオイラは知らないが、はっきり言ってこの『黒死館殺人事件』、一見さんは必ず音を上げることで有名(笑)。
理由はハッキリしてて、探偵・法水が詳らかにする衒学趣味的推理の数々を構成する情報量がハンパないからだ。
オイラの感覚だが、衒学趣味(オタクのウンチクだとでも思ってほしい)の分量が、同じ方向性にある京極堂シリーズの100倍はあるだろう。軽く見積もっても。ちなみに、濃度も100倍だ。軽く見積もっても。
音を上げないはずはないわな。
なので、『黒死館殺人事件』を面白いと感じるかどうかは、言うまでもなく、この膨大な情報量を楽しめるか楽しめないか?という一点に尽きる。
あと、彼の超耽美な物々しいアルファベット&ルビがらみの古文調の文体も併せて。
内容をざっくりと説明すると、古い因習に捕らえられた奇妙な館の中で起こる密室殺人事件を探偵・法水麟太郎が解決する、というもの。
確かにこれだけ見れば、普通のミステリのような気がするが、実際に読んでみるとそうは問屋が卸さない(笑)
本作の最大の特徴は、探偵と犯人と事件が小説の主役(あるいは中心)ではなく、むしろ舞台である黒死館が主役であり、探偵も犯人も事件も単なる記号的な脇役でしかないという部分。
よく小説の寸評や選評等で用いられる「登場人物の内面が描かれていない」という人間を描くという行為自体が、この作品上は全く意味がない。
当然だ。
だって血の通った人間のキャラクターなんていらないんだもの。
徹底した衒学趣味と膨大な資料からの引用とが縦横無尽に張り巡らされた物語空間であり、黒死館という物語舞台こそが最大にして唯一無二の主役。
その内部にいる登場人物はこの物語世界を構築するためだけの存在なので、人間的な内面なんていうのは必要ない。
第一、本作は完全に物語の構造を楽しむ類の小説だ。
それに対して、”人間が描けていない”というのは、八百屋に行って「野菜ばかりを売っていてけしからん!!」と怒るようなもの。完全にピントがずれてる。
個人的な感想だけど、いわゆるあるジャンルに対する”脱構築”というアプローチが、昭和の頭になされていた(小栗当人がそれを自覚していたかどうかはさておき)ということ自体が驚異的。
だって、黒岩涙香によるドイルやポーの翻訳に始まり、谷崎潤一郎の『金色の死』。そして江戸川乱歩の登場による探偵小説というジャンルの誕生。
わずか数十年でここで成熟と進化を遂げるというハイペースっぷりは驚異的だ。もっとも、この当時の探偵小説というジャンルは非常に間口が広くてSFもこの中に含まれていたことを考えると、色々な意味で実験的なアプローチが許された時代なのだなあ、と感慨深い。
もっともその後、松本清張の登場によりこういった構造的なアプローチが全否定され、日本文学の負の部分”人間の感情をありのままに描く”という強烈な退行運動が発生したのは返す返す残念だ。
戦中戦後の動乱の中で、夢野久作が急死し、小栗はエチルアルコールで中毒死。橘外男や久生十蘭、大坪砂男は忘れられていく。
そうはいいつつ、現在そんな彼らにリバイバルのブームが静かではあるけど来ているのは喜ばしい限り。
ある一定の限られた時期とはいえ、もっとも自由に探偵小説が編まれた時代の息吹やトンガリ具合をこの本を読むたび感じないではない。
死ぬほど有名な小説ではあるが、最後まで読み通した人間が少ないのもまた事実。
でも、一度読んでしまえばすぐに虜になること請け合い。
眼鏡堂、心の一冊でございます。
【追記】
本作において探偵・法水麟太郎は中盤にて、見事な物理的推理でもって犯人を「犯人はあなただ!!」というギリギリ手前まで追い詰めるが、一転、「この推理はつまらないからナシね」といきなり自ら振り出しに戻す(笑)
そしてまた最初から推理し直す(笑)
こういう驚愕の展開が許されるのも四大奇書ゆえだ。