作家で詩人、翻訳家の矢川澄子による評論。
森茉莉、アナイス・ニンを軸にした「少女論」と同時に、彼女らの作品を通してみる異性としての父親の存在について語られています。
それぞれ偉大な父親の娘と生まれながらも、父親という存在の捉え方は対照的。
森茉莉は死ぬまで父の娘であり続けたのに対して、アナイス・ニンは父の恋人であろうとしました。
この辺りはちょっと感覚的に理解できるような理解できないような、ぼんやりとした感覚にしか眼鏡堂には理解できませんが、でも女性(少女)にとって最も身近にいる最初の異性としての父親、その存在について森茉莉、アナイス・ニンそれぞれの作品からひも解いて見せるのが、本作の内容。
個人的に、本作の内容として喧伝される『少女論』というものよりも、森茉莉・アナイス・ニンの作品や彼女らの人生を通して垣間見える「女性の目から見た父性」というものの方を興味深く感じました。
父親の庇護の下で何不自由なく暮らし、最後の最後まで娘であり続けた森茉莉に対して、父に捨てられたことから父親に対して恋愛感情にも似た強烈なコンプレックスを障害抱き続けたアナイス・ニン。この全く異なるようでいて、どこか交錯する二人の生き方を丁寧に解きほぐしながら、独自の考察を論じていく矢川さんは流石だな、と思いました。
ただ、勘違いしてほしくないのは本作はあくまでも評論であって、フェミニズムについて論じているものではないということ。これは注意が必要です。
それはそれとして。
全体の分量としては、アナイス・ニンよりも森茉莉の方が倍以上を占めています。
これは著者が生前の森茉莉と親しかったことに端を発した作品なので、仕方ないといえば仕方ないのかも。同時に、女性が自立して男性社会に頼ることなく一人で暮らしていくためには、男性中心の現代社会ではそれがどれほど困難であるか、ということにも言及しています。
ただ、これについてもフェミニズム的な論調ではなく、もっと文学的というかすごくドライな形で論じられているところが、眼鏡堂としては興味深く感じられました。
あと、アナイス・ニンの日記が何度も引用されるのですが、そのきわどさといったら……。眼鏡堂の目にはちょっとにわかには信じがたいくらいの男性関係というか、べつに生々しくもなければ、いやらしいわけでもないのに、とんでもなくスリリングなことがあっさり書いてあって、それが余計にドキッとします。
うわ~女性ってすげえな。
読んでいてすごく心にくるのは、著者の矢川澄子自身も彼女ら同様に「父の娘」であったということ。
教育学者・矢川徳光という偉大な父の娘に生まれ、父という存在とは程遠い「永遠の少年王」澁澤龍彦と結婚するも離婚、その後、硬派で男性的な「父」と呼ぶにふさわしい谷川雁と関係を深めるも、破局。
以後はいわゆる「おひとりさま」として晩年まで過ごします。
著者自身が異常にスケールの大きな男たちの間を流れるように(流されるように、ではない)立ち向かっていったからこそ、書くことのできた本のように思えます。
絡まりあった糸をほどくように、同じテーマを何度も何度も繰り返し論じていきながら少しずつ前に進んでいくので、人によってはまどろっこしいと感じるかも。
ちなみに、眼鏡堂はこのくらい繰り返し論じてもらった方が読みながら自分自身はどう考えるのか・どう思うのかと反芻できたので非常に満足です。
最後に、ちょっとだけ。
読んでいて良くも悪くも強く印象に残った一節を抜粋。
臨終の顔をととのえてあげられる看取り手も居合せず、二日間自然のままに委ねられた顔。ひとりで暮らすということは、この面相をも引き受けるということなのか。茉莉さん、ごりっぱ、とつぶやきながら、わたしはやたらに薔薇の花びらをまきちらしていた。
孤独の中で誰に看取られるでもなく死んだ森茉莉のことを書いた文章なのに、まさか著者自身がそうなるなんて……。*1