眼鏡堂書店

積み上げられた未読本の消化と、ホラー映画100本ノックを目指すブログ。不定期更新のゆるゆるです。

サド侯爵夫人・わが友ヒットラー/三島由紀夫

サド侯爵夫人・わが友ヒットラー (新潮文庫)

サド侯爵夫人・わが友ヒットラー (新潮文庫)

 

三島由紀夫による戯曲から。今回選んだ本には2作が収録されているので、『サド侯爵夫人』『わが友ヒットラー』の両方についてつらつらと書いていこうと思います。

ちなみに、眼鏡堂は実際の舞台を両方とも見ていないので、どういう風に演出されているのかはわかりません。なので、あくまで戯曲単体での内容になるのであしからず。

 

んでは、早速。

 

サド侯爵夫人について

タイトルからわかるとおり、マルキ・ド・サドの妻であるルネが、最終的になぜ夫の帰りを待ちわびながらも、実際に彼が釈放されると離婚に至ったのか?という謎。

その点について三島由紀夫なりの解釈に基づいて編まれた作品です。

これもまたタイトルから容易に知れることですが、作品が編まれるきっかけになったのは、三島の友人だった澁澤龍彦。謹呈された彼の著作『サド侯爵の生涯』を読んで抱いたそもそもの疑問と興味が創作の出発点だったとか。

で。

この戯曲のおける最大の特色は、6名の登場人物が全員女性であること。

サド侯爵とルネとの離婚が結末でありクライマックスと考えると、サド侯爵がどうにもこうにも登場しないと成り立たないように思うのですが、そこは天下の三島由紀夫です。非常に偏りのあるキャスティングにもかかわらす、そこに全く違和感がありません。

むしろあまりにも自然すぎて、かえって本作についての評論の中で”女性で明けの舞台”であることが強調されると却って鼻白んでしまいます。

んでもって、眼鏡堂が感じたことを少々。

普通、戯曲というとト書きがいろいろと書かれるもの。場面の状況とか、役者に対する動きの指示とか。

でも、本作にはそれがほとんどないのです。よほど強調すべきものだけが最小限に書かれている印象。残りの部分は実際の舞台へと至る稽古の中で、演出家也が最終的に加味する部分であったり、役者の演技によって足される部分であったり、という風に眼鏡堂は思いました。たしかに、台本によってはやたらとガチガチにト書きがある者もあるけれど、このくらい余白があった方が、演出する側も演技する側もやりやすいのではないんじゃないかな?などと素人考えで思ってみたり。

 

さて、そんな『サド侯爵夫人』は3幕構成。

第1幕 1772年

第2幕 1778年9月(第1幕の6年後)

第3幕 1790年4月(第2幕の12年後)※フランス革命の9か月後。

 

そんな中で展開するのは女同士の罵り合い。

女性同士の友情や人間関係は結構ドロドロしていると聞くのですが、実際文字に起こしてみるといやいやなかなかのもので。上品な仮面の下にある本性があらわになり、その本性をむき出しにして罵り合うさまは圧巻というか、そりゃ女性だけの舞台にせざるをえないわな。

んでもって、最大の命題である”ルネはなぜ侯爵と別れたのか?”

作中では明確な答えは出されておらず、読み手(あるいは観客)がそれぞれ回答を導き出すことになります。なので、ここからは眼鏡堂の個人的な解釈として。

貞淑なルネにとって侯爵は恐るべきものであると同時に、非現実的で神々しく仰ぎ見るもの、という逆説的な存在だったのでしょう。まして牢に繋がれていて直接的な接触がかなわなければこそ、彼女の中にある想像上の侯爵の存在がより一層美化され理想化されていきます。その侯爵に対してルネはきっと「あなたのことをもっとも理解しているのは、理解できるのは私しかいないのよ」と思っていたに違いありません。だからこそ20年近い年月、どれほど家名が傾こうとも彼の悪徳に釣り合う貞淑を守り通しながら侯爵の帰りを待ち続けたのでしょう。でも、釈放され帰ってきた侯爵の何と現実的なことか。みすぼらしく薄汚れて太った姿のあまりの現実的な光景が、彼女の中にある理想と乖離してしまったが故に、彼女は現実の侯爵ではなく理想の中にある侯爵を選択したのではないのでしょうか。それゆえに、現実の侯爵を受け入れず離婚に至ったのでしょう。

思いのほか戯曲としては読みやすく、退廃的なデガダンスが満載なので、そういうのが大好物な眼鏡堂は非常に満足した作品でした。舞台の方*1も見てみたいです。

 

わが友ヒットラーについて

『サド侯爵夫人』が女性だけなら、こっちはキャスト4人が全員男性。

別になにがどうこうというわけではないけれど、キャストが女性だけだと話題になるのに、キャストが男性だけというのはなぜか普通に見える不思議。まあ、特に意味はないのですが。

そんなことより、こっちの方は題材がセンセーショナル。フィクション作品とはいえ、ヒトラーナチスを扱うっていうのはなかなかに勇気がいります。まして、タイトルが『わが友ヒットラー』。内容を読みもせずヒステリックになる連中がわんさか湧き出しそう。まあ、作者もそれを狙った節がなきにしもあらず。

 

んでもって、肝心の内容。

3幕構成で舞台はすべて1934年の6月。

ナチスの物語で1934年の6月とくれば、当然のように思い浮かぶのは『長いナイフの夜』。ま、常識の範囲内ですね。ちなみに、この長いナイフの夜とは、ナチス党初期に起こった政権掌握のための大粛清事件。ヒトラーゲーリングによって首謀され、私兵組織であった突撃隊(SA)幕僚長のエルンスト・レーム、ナチス党左派のグレゴール・シュトラッサーらが殺害された事件のことです。これ以後、突撃隊に代わってヒインリッヒ・ヒムラー率いる親衛隊(SS)が当てられ、ナチス党内部はヒトラーとそのシンパによって政権が完全掌握され非常に強固な独裁体制が確立します。

という、その結末に至るまでの物語が、本作『わが友ヒットラー』です。

 

本作の登場人物は4人。

ここに至るまでの世界史的な一般常識は、ある程度知っているのが前提、というのがなきにしもあらず。まあ、知らなくてもナチス党立ち上げに尽力した幹部が粛清される物語、という具合には理解できるようになっているのは流石三島由紀夫

正直、『サド侯爵夫人』にはそういうサービス精神があったかどうかというと……。

それはともかく。

ミュンヘン一揆の苦い失敗を元に、合法的な手段により国家第一党の地位を確立したナチス党。その両輪となったのが、暴力装置である私兵組織・突撃隊(SA)、そして共産主義ユダヤ主義への攻撃を政治的主張として推進したナチス党左派。

それぞれを代表するのがレームでありシュトラッサー。

それぞれの理想を託した先が、他でもないヒットラー

しかし、政権掌握と組織掌握のため、ヒットラーにとって突撃隊もナチス左派も邪魔なものになっていきます。そして、ただ排除するだけではなく、政権と組織を盤石なものにするために彼らを裏切り者にする必要があります。そしてそこにはヒットラーの良心の呵責がある。

最初に裏切りに気付いたのはシュトラッサーでした。だからこそ、彼は敵対するレームへの協力を懇願にも近い形で求めます。

しかし、ヒットラーが伍長だった時分、それこそ共に第一次世界大戦の戦場を駆けずり回り、ミュンヘン一揆で辛酸をなめ、お互いに理想とするドイツ帝国の復活を夢見たレームはシュトラッサーの懇願を一蹴してしまいます。

なぜなら、レームにとってヒットラーは、まさに『わが友ヒットラー』だから。

 

目指す理想の遵守に斃れていったこの二人が、ナチスの人間であるにもかかわらず妙に純粋な人間として見えてくるのが、皮肉っぽくもあり、恐ろしくもあります。

同時に、レーム率いる突撃隊(SA)は、あるべきドイツ帝国軍を目指しているわけですが、それが私兵組織であるが故に、どこまでも”兵隊ごっこ”。

そんな”兵隊ごっこ”について三島由紀夫が書いている、というと、どうしても思い浮かぶのが楯の会であり、楯の会事件。

彼自身、自分の身に起こる未来を予見していたわけではなかったでしょうが、それが奇妙な皮肉の味を醸し出させていて、思わず口の橋が歪みます。

そして極めつけが、最後にクルップが発するこのセリフ。

「そうです、政治は中道を行かねばなりません」

 

まとめ

『サド侯爵夫人』も『わが友ヒットラー』も、両方とても面白く、そして興味深く読んだのでした。個人的な好みだと『わが友ヒットラー』かな?

戯曲というと、舞台ありきと思われがちですが、それ単体でも十分に楽しめます。

ぜひぜひ広く読まれてほしいな、と思ったのでした。以上、終わり。

*1:数ある舞台版の中で最高との誉れが高いのは、90年の東京グローブ座公演。だって、演出したのはスウェーデンの巨匠、イングマール・ベルイマンだよ!!