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積み上げられた未読本の消化と、ホラー映画100本ノックを目指すブログ。不定期更新のゆるゆるです。

高丘親王航海記/澁澤龍彦

高丘親王航海記 (文春文庫)

高丘親王航海記 (文春文庫)

 

読売文学賞を受賞した澁澤龍彦唯一の長編小説。

在原業平の伯父で、平城天皇の第三子である高丘親王を主人公に、彼が唐から天竺を目指すその道行を描いた幻想小説です。

 

本作を定義すると”幻想文学”ということになるのですが、歴史的事実を元にした小説という意味合いから、”時代小説”という風にも解釈できるかと思います。ただし、広義の意味での、です。

個人的に、この”時代小説”という冠がクセモノ。

一般的に思い浮かぶ”時代小説”のイメージとしては、池波正太郎だとか藤沢周平とかの人情もの。つまり登場人物の心情や内面を当時の世相を絡めつつ丁寧に描いた作品のこと。そういうのが”時代小説”と呼ばれるものの一般的なイメージだと思います。

その一方で、歴史的事実を踏まえながらより自由なイメージで形作られた物語のことも、同じく”時代小説”と呼ばれます。ちなみに、歴史的事実に可能な限り忠実に従って作られた小説は”歴史小説”と呼ばれます。代表的な作家としては、山岡荘八だとか司馬遼太郎が有名ですね。

 

さて。

話を”時代小説”のことについて戻します。

歴史的事実や歴史上の人物を用いつつ、それらを換骨奪胎して新たな物語を作り上げる、という意味での”時代小説”。その書き手の代表として挙げられるのは、なんといっても山田風太郎

山田風太郎作品がかなりエンタメと考えるのなら、澁澤龍彦はもう少し文学寄り。

時代小説にありがちな、登場人物の心情や内面を描く、というのはほとんどなく、むしろ物語を転がすための駒という印象。でもそれは作品の足を引っ張ることなく、むしろ澁澤作品のトレードマークとも言える、カラッとした硬質的なイメージを後押ししているようです。

 

で。

今回取り上げる『高丘親王航海記』についてです。

主人公となるのは高丘親王(799~865)。冒頭にも書いたのですが、在原業平の伯父で、平城天皇の第三子という実在した歴史上の人物で、平城天皇の愛妾である藤原薬子の変に連座する形で仏門へと帰依しました。

その彼が仏教典を得るために天竺を目指す、というのがメインとなるストーリーです。ただ、メインとなるのはその道中で展開するアナクロニズムであったりアンチボデス。実存的なストーリーというよりも、ここで優先され、或いは描かれるのは書物に基づく旅。例えば澁澤さんが敬愛するプリニウスの『博物記』に基づくかのような。

アナクロニズムやアンチボデス、というような単語、または”澁澤龍彦”という名前から非常に難解な小説をイメージしてしまいそうですが、一読してみればわかる通り、文章は平易そのもの。一種の童話的世界のようにすら感じました。

同時に、この小説が非常に特徴的に感じるのは、なんといってもその舞台。

外国を舞台にした時代小説というと、どうしても中国になりがち。例えば吉川英治とか。でも、本作の舞台となっているのはなんと東南アジア。それがエキゾティシズムやオリエンタリズムに結び付いて、特徴的で鮮やかな世界観と物語世界を生み出しています。

そして、そんな不思議な世界で繰り返し繰り返し登場するモチーフは、夢と現。

高丘親王の見る夢、高丘親王の描いたイメージ。物語の地の文で登場するものにも、人語を解するジュゴンや、この地にいるはずもない大アリクイが言葉をしゃべったり、犬の頭をした人間、女性の顔をした鳥、夢を食べる獏……。

どこまでも不思議な物語世界が進行する一方で、澁澤龍彦ファンにとっては先に進めば進むほど、胸が苦しくなる小説です。真珠を飲み込んだ親王が声が出せなくなり、それが元でどんどんと衰弱していく様。それは言うまでもなく晩年の作者が下部咽頭がんに侵され、声を失うことを仮託したもの。同時に、親王が語るある種の死生観は、もしかしたら作者自身の死生観に関連するものなのかも。

……すでに、澁澤さんが亡くなって30年以上が経ち、彼について調べようと思うとまた聞きという形で資料の海に漕ぎ出さなければなりません。なので、本当にその死生観が作者のものとイコールかどうか、今では確かめる術はありません。

ともあれ、非常にカラッとした物語は読みやすくある一方で、非常に物語へと引き込んできます。ただ、いわゆる時代小説として読むと、非常につまらなくて細かいこと、つまりは地の文にカタカナ語が当然のように出てくることに違和感を覚えるのですが、しかし、時代小説というよりは幻想文学として読まれる類の小説と考えればすぐに消えてしまう違和感です。

 

ずいぶん多くの国多くの海を巡ったような気がするが、広州を出発してから一年にも満たない旅だった。

 

この一節での”巡ったような気がするが、”という人称は明らかに作者である澁澤龍彦自身の視点。その点において、この作品が彼自身の自己完結の物語であることも踏まえて、(それほどの長さではないにも関わらず、)非常に読みごたえがある作品でした。

幻想文学というと、暗い、オカルティック、訳が分からない、じめじめしている、というどちらかというとネガティブな印象論で語られることがしばしば。どうじに、そういう先入観がある人ほど、本作を手に取ってもらいたいと思ったのでした。以上、終わり。