眼鏡堂書店

積み上げられた未読本の消化と、ホラー映画100本ノックを目指すブログ。不定期更新のゆるゆるです。

神聖喜劇(1)/大西巨人

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

 

 作家・大西巨人の代表作でありデビュー作。

1942年の対馬要塞を舞台に、軍隊内の不条理を前に主人公・東堂太郎が奇想天外な方法で抗う様子と、彼を取り巻く人々の悲喜劇、そして軍隊とは?戦争とは?など東堂の内面的な独白や思索が縦横無尽に編まれた小説。

 

さて。

 

神聖喜劇』といえば、戦後日本文学の金字塔であり、戦争文学の最高傑作ともいわれる小説。なおかつ、デビュー作であるにもかかわらず、原稿用紙で4,800枚あるという長編中の長編小説。*1

普通に考えて、気楽に手に取れるような代物ではありません。

合わせて、作者たる大西巨人先生の筆致はまるで「漢文か!」とツッコみたくなるほど硬質であり厳めしい古文調。作品内の時間も1942年1月~3月までのわずかな期間であるにもかかわらず非常に濃密に、悪く言えば不必要なまでに事細かに描写されるうえに、軍隊内の規則の引用を筆頭に古今東西の名著や思想書の引用がつるべ打ちのようにガンガン登場してくるありさま。

 

……ということで、ざっとした作品の概要というかバックグラウンド紹介の時点で大半の皆様の読書意欲をガンガンに削いだことと思います。

んで、こっからが肝心なことなのですが、じゃあ、そういう作品だから面白くないんでしょ?つまんないんでしょ?と思うでしょう?

この作品の良くも悪くも厄介なところは、4,800枚もある超長編小説で戦争文学であるにもかかわらず、抜群に面白いところ。

たしかに多少の読みにくさと、古今東西の書籍からの引用、遅々として進まない時間進行などなど、マイナス要素は多々あれど、びっくりするくらいに今現在でも十分に通用する社会というか組織というものが内包しそして解決できない(解決しない)問題がありありと描写されています。

 

物語は、主人公の東堂太郎が予備兵力として対馬要塞に向かう船上から始まります。

旧帝大生の知的エリートで、この戦争が如何に無意味で、そして日本の勝利が皆無であると知っているにもかかわらず、その戦争を阻止できなかった悔恨から彼は、

世界は真剣に生きるに値しない。本来一切は無意味であり空虚であり壊滅すべきであり、人は何を為してもよく何を為さなくてもよい。(中略)--私は、この戦争に死すべきである。戦場は、「滑稽で悲惨な」私の生に終止符を打つであろう。 

 という決意のもとに招集へ応じます。その決意が如何ほどかというと、徴兵検査を担当した軍医が東堂の旧知の人物であり、意図的な誤審を下されるのですが東堂はそれを拒絶して兵隊となるのでした。……例えば、映画ですが『俺は、君のためにこそ死ににいく』のような「国を守るために死にに行くのだ!」というようなシロモノとは対照的。むしろ、そんな理由のはるか高みを行く絶望感がそこにあります。

しかし、1巻のハイライトとなるのはそこではなく、その東堂が直面する軍隊の不条理。そして、その不条理に対して彼がとった奇想天外な抵抗方法です。

 

彼が直面した軍隊内の不条理、それは”責任の所在が明らかではない”ということ。

作中でそれが表れるのは、朝の呼集の場面。

東堂らの班は朝に呼集があることを告げられていなかったため遅刻してしまい、班の教育係よりも上の上官に怒られます。

呼集のことを知らなかった、と言う東堂に対して上長が返した言葉は、

「わが国の軍隊に『知りません』があらせられるか。『忘れました』だよ。忘れたんだろうが? 呼集を。」

 こうして『知らなかった』ことが『忘れた』ことにされることで、上官は部下に対して一方的に責任を追及することができ、部下は上官に対して一切の責任を問うことができなくなります。

作中、東堂はこうして横行する不条理な行為を”累々たる無責任の系譜”と称します。

この構造の問題点は、責任の所在が明らかでない(うやむやにされたまま)最悪の事態に進み続けること。同時に、その事態の責任をだれ一人取らなくともよい、ということ。このあたりについての慧眼は、現実の歴史の中で「あの敗戦の責任の所在はどこに(だれに)あったのか?」という問題がうやむやになったまま、何となくそれらしい形で収束し、明確にされなかったことにつながります。

 

とはいえ、この”累々たる無責任の系譜”は現在の社会問題にもばっちり通ずるからこそ、本作の面白さが光ります。

上官が部下に対して暴力をふるうことは軍の規律によって厳禁されている(これ自体は明文化されている)にもかかわらず、それを『公的制裁』と言い換えて「やむを得ない手段である」と置き換えることで、上官は部下に対して無制限に暴力をふるうことができ、また、軍の規律に抵触しないという呆れるようなウルトラCが成立します。

これは、近年のスポーツ界の問題と全く変わらず。

「気合を入れるためにやった」「暴力ではなく指導の一環」などなどの言い訳にもならない言い訳が、『神聖喜劇』でいうところの言い換えによって価値変換されたことによって、公的にもOKなシロモノになるというのとまったく一緒。しかし、それはあくまでもその世界内のみで通ずることでしかなく、外部から見れば明らかにおかしいことであることもまた、『神聖喜劇』は作中で示唆しています。

 

日本社会の組織が昔から内包し続けた非常に根深く厄介な病巣は、いざ超綿密なリアリティによって詳細に提示されるともはや喜劇でしかなく、しかも、それほど笑える喜劇ではないという。

戦争文学というと、とかく敬遠されがちで、面白くないと決めてかかられるものですが、本作は文章の固さという問題はあるものの、物語そのものは本当に抜群に面白いです。

読めば読むほど、戦争末期なのにこんなバカなことが現実に起こっているわけがない、と思う人もあるかもしれませんが、これは逆に考えるべきかと思います。こんなバカなことばっかりやってたから日本は戦争に負けたのだ、と。

ともかく、眼鏡堂書店は大西巨人先生を応援しています。以上、終わり。

*1:脚本家・荒井晴彦によるシナリオ版は、ゼーレシナリオであるということを考慮に入れるとしても、上映時間が27時間というトンデモないシロモノに仕上がりました。アマゾンのレビューでは「こんなに度を越して長い理由がわからない」と書かれていますが、短くしたらそれは『神聖喜劇』ではなくなるわけで。