まるで日傘のように、陸橋が日の光を遮っていた。
本格的な夏の足音がすぐそこまで来ているかのような、梅雨明けの晴れにあっては、それは有り難い限りである。たとえそれが、路面の隅に残る一昨日の驟雨の名残や、じめっとした冷ややかだが淀んだ空気で満たされているとしても。
そもそも、こんな日差しの強い昼間に出歩いている私の方が間違っているのだ。驟雨の名残や、空気の良し悪しについて評することのできる立場ではない。
さて、少々遅れたが、私自身のことについて、いささか述べておこうと思う。
私は東北地方の日本海側に位置するA県で生まれ育った。そして中央の大学を卒業するとともに故郷に戻り、大きくもなく、また小さくもない学習教材販売会社に就職した。この職場が家から通うには不便なために、今は会社の近所のアパートで独り身の生活を送っている、
我ながらこうして振り返ってみると、平々凡々というに相応しい半生を(それほど大そうなものではないのだろうが)送ってきたことに、改めて気づかされる。それは、一日の生活の代わり映えのなさにも表れている。
朝起きて会社に行き、営業の仕事で方々を周り、時に残業をし、時に飲みに行き、部屋に返って、寝る。無論、朝になれば、また起き、会社に行く―。
判で押したような繰り返しの日々である。休日にもなれば、この繰り返しから解放されるが、どのような生活を送っているのかについては、あえて書かない。いや、むしろ書くべきことなどない。特筆するほどの何かがあるわけではない、自堕落な生活を送っているだけなのだから。
しかし、このところ休日ではない日常の生活に、ほんのささやかな変化が生まれていた。
ここで気の早い方は私が独り身の男であることから、女でもできたか、と考えるかも知れない。しかし、それは正解ではない。もしそうであったとしたならば、私にとっての変化が、ささやかなものではないだろうから。
その変化とは、新しい友人ができたことだ。
もっとも、友人と思っているのは私の独り善がりかもしれず、またその対象となっているのは人どころか、生き物ですらないのだから。
彼―便宜上、私はそう呼んでいる―は冒頭に記した、陸橋の日傘の陰の中に居る。このあたりは、私の仕事の割り当てである小学校のある地区である。小学校周辺は小気味よいほどに家々が整列しているが、一度奥まったところ、つまりは陸橋の日傘の下の場所なのだが、そこに足を踏み入れると、一転して雑然とした雰囲気に満たされる。
細く、見通しの悪い路地には常に右か左に歪んでいて、思い出したように急に現れる曲がり角がそこにアクセントをつける。おそらく、このあたりは、空を飛ぶ鳥の目を通したならば、歪な蜘蛛の巣か、はたまた迷路に映るに違いない。
そんな場所。狭い路地を右に左に逍遥した先の、一件の民家の玄関先に、彼は居る。
正体を明かしてしまえば、彼は陶製の狸の置物だ。
幼い子供ぐらいの背丈で、背に編み笠を背負い、右手に酒徳利、左手に大福帳を持ち、真ん丸い太鼓腹で、軽く小首を傾げる狸の置物。
それが私の新しい友人である。
彼は非常に豊かな表情を持っている。
暑い日は気怠そうに。雨、それも小ぶりのにわか雨や霧雨の日には寂しそうに。大降りであれば困ったように。別に天気のみで変わるわけではない。小首を傾げた様が愛らしいときもあれば、小憎らしいときもある。また、意外なほど凛々しい表情をしながら、玄関先という定位置で睨みを利かせている時もある。
もっとも、そのいずれもが、私の目にはそう映るだけのことでしかなく、他人からすれば、いつもそこにあるだけの代物でしかないのかも知れない。当然、表情が変化するわけもなく。
ともあれ、いつもそこに居る―私にとってそこに「ある」ではないのだ―彼と会うのは、いつの間にやら、ちょっとした楽しみへと変わっていた。特にこれといった何かをするわけではなく、ただその前を通り過ぎる、もしくはよほど気が向いたときだけ、ほんの数秒立ち止まるというだけであるにもかかわらず。
その際、私は心の中で彼に声をかける。
―やあ、こんにちわ。
そう声をかければ、彼も同じように返してくれる。
また、日差しの強い夏の日に。
―今日は暑いね。
と私が言えば、彼は、
―夏なんて、いつもこんなもんさ。
と言う。
雨に濡れた彼に、
―傘を貸してあげようか?
と訊くと、すぐに、
―背中にあるから大丈夫さ。
という返答がある。
実際問題として、そのどれも、私の心の中の独り遊びの産物でしかないのは周知の通りである。しかし、これはちょっとした息抜きとしては上等なものだ。彼がそう言っているような気さえ、心の何処かで感じていたのだから。
今思えば、このぐらいのささやかな関係を保ちつづけていればよかったのだ。親しさに甘えた私が、とんでもない過ちを犯してしまう前に―。
私は過ちを犯してしまった。
彼の居る玄関。それを要する平屋が、古びた空家であったこと、そして、私が心の寂しさを埋めるために酒を飲んでいたこと、とにかく幾つかの要因が不幸にも結びついた結果が、その過ちへと繋がっていった。
私は、彼を自分のアパートに連れ帰ってしまったのだ。周りに、人目がないのをいいことに、彼を盗んだのだ。
親しげな彼が自分の部屋に居たら、どんなにかよいだろう。その発想は、自制の乏しい子供の持つそれだった。しかし、大人であるはずの私の理性は沈黙したままで、その行為を止めようとはしなかった。
幸いにも、というべきだろうか?持ち帰る最中、誰にも会わなかった。
部屋に入り、テーブルの向かいに彼を置いたときの私の表情は、恥ずかしいことに、満足げであったに違いない。とにかく、そのときの私は幸せだったのだ。望んだものを手に入れたことに対して、罪の意識に苛まれる事もなく。
その幸せが崩れたのは、思いのほか早かった。
彼は、何も言わなくなってしまったのだ。
私がいくら話しかけても、怒ったような顔をするばかりで何も言わない。あるいは、寂しげな表情を浮かべるばかりで。
古きものには、憑くも神が宿る。
これまで彼が話した言葉の数々は、その憑くも神によるものではなかったか。いつしか、私はそう思うようになった。彼のことを考えることなく、自分の欲望に流されるまま行動した私を責めている。物言わぬはずの狸が、そうしているかのようにすら感じられた。
憑くも神が怒っている。
まともに考えれば、そんなことは錯覚と呼ぶことにすら値しないだろう。しかし、この馬鹿げた考えが、私の中に恐怖と罪悪感を呼び起こした。
私は怖くなった。憑くも神の怒りにも、沸き起こる罪悪感にも。
私はある夜、彼を抱えて部屋を飛び出すと、足をもつれさせながら、まるで捨てるように彼を元の場所へと戻した。
振り返ることもできなかった。とにかく、私は恐ろしかった。
こうして、私と彼との友情は終わった。そして自然と、そこに向ける足も遠のいた。
これは忘れがたいこととして、私の記憶の底で眠っている。犯罪であったことよりも、大きい、何かもっと別のことによって負った傷は、あまりに深かった。教訓めいた言葉が浮かんでは消え、一向に形にならない。幾つか得たものもあったに違いない。しかし、それ以上に大きな何かを失った気がする。
長い長い時間を経たある日、私は彼の元へ足を運んだ。そこに彼はいなかった。
得た何かと、失った大きな何か。狸の置物を見るたびに思い出されるその二つを、私は未だにつかむことができずにいる。
(おわり)